花魁(おいらん)
吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。
18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造などの妹分が
姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を
指す言葉となった。
「おいらん」の語源については、妹分たちが
「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある。
吉原遊廓(よしわらゆうかく)
江戸幕府によって公認された遊廓。
始めは日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、
明暦の大火後、
浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、
駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。
三大遊廓にかぞえあげられた京と江戸の遊廓はどのようにして成り立ったのか。
江戸では城の普請の際に遊女町の一つであった柳町が幕府の御用地として召し上げられることになったため、
これを機会に各所に散在する遊女町を一ヶ所にまとめてもらいたいと幕府に願い出た者がいた。
柳町の庄司甚内であったが、
この時は認められなかった。慶長10年(1605)のことである。
慶長17年(1612)になって、庄司甚内は3つの条件を添えて再び願い出た。
その条件は、
遊女屋を隠れ蓑にする不審人物は直ちに奉行所へ届け出る、などであったが、これに対し幕府は元和3年(1617)、
5つの条件を付けて許可した。
5つの条件とは
一、廓外で遊女屋をしてはならない。廓外へ遊女を派遣してはならない。
二、遊女を買う客は一泊のみであること。それより長く逗留させないこと。
三、遊女に贅沢な衣装を着用させてはならない。
四、遊女屋の建物は質素にすること。
五、不審者は奉行所へ届け出ること。
面白いことに、大坂・京・江戸の三大遊廓、いや実際には諸国ほとんどの遊廓の
開基は武家出身者であるということである。
文化の発信地としての吉原遊廓
多くの下級遊女たちの悲惨な境遇にもかかわらず
吉原遊廓は新しい文化の発信地でもあった。
さまざまな女性の髷や、衣装などが、吉原遊廓から新しいファッションとして始まったことからも分かる。
そして、それらは芝居と呼ばれた歌舞伎と相互に作用して、音曲や舞踊、その他の雑多な芸能とともに江戸市中で評判となった。
これは、男性と女性の間に起こる悲喜交々が、人々の耳目を引いたためであろう。
それは面白可笑しいことがらとして、あるいは悲しいお話として、芝居となり、浄瑠璃として語られ、唄に歌われた。
幕府は自ら公認した吉原遊廓を"悪所"として江戸から遠ざけようとしたが、人々は非日常の世界を、そこに見出していた。
昭和32年の売春禁止法が施行されるまで、続いたわけです。
花魁道中
吉原では花魁が妓夫の肩に手をかけながら
外八文字で花魁道中するが、新町や嶋原では妓夫の肩を借りずに内八文字
(うちはちもんじ)で太夫道中する。
三枚歯の高下駄を履き、独特の外八文字の歩き方を披露します。
かつら・衣装等合わせると30kgにも及ぶ重量のものを身につけるため、
美貌だけでなく、精神力や忍耐強さ、足腰の強さ等体力面も要求されます。
(出演者・配役等は変わる場合がございます。)
遊女の格式では、
「太夫」→「格子」→「散茶(さんちゃ)」→「うめ茶」→「五寸局(つぼね)」→
「三寸局」→「なみ局」→「次(つぎ)」
の序列になります。
そして、「太夫」と「格子」に客がつくと、揚屋まで向かう時は、いわゆる
「花魁道中」をして、客のもとへ向かいました。
従って、「花魁道中」は、「太夫」と「格子」の特権でした。
吉原の女性たち
吉原にはもちろん遊女以外の女性も沢山いました。
以下、年齢の低い順番に紹介します。
遊女のデビューは17歳、引退は27歳です。
禿(かむろ)
太夫など上級遊女の身の回りの世話をした10歳以下の童女
。
花魁道中の先導も勤めていました。
将来は遊女です。
太夫は禿の衣食住一切の費用を持つこととなり、上級遊女しか禿を持つことが出来ませんでした。
振袖新造
禿が15歳前後になると、振袖を着ていることからそのような呼ばれ方をしました。
遊女見習でまだお客は取りません。
「振袖新造」は禿の中でも将来太夫になれることを約束された女の子でいわばエリートです。
容姿が美しく、芸事など楼主からみっちり仕込まれます。
また、いつも太夫の近くにいて、太夫の仕草・お客とのやり取りなどを勉強しました。
また、姉太夫に馴染み客が重なった場合、「名代」として太夫の代わりにお客と添い寝をするのも大切な仕事でした。
お客は振袖新造には手を出してはいけませんでした
。
また、お客は結局朝まで太夫が来なくても、料金はきちんと支払い、文句を言うのは野暮とされていました。
振袖新造は17歳で正式な遊女となり、将来は太夫となっていきます。
振袖新造のデビューは「突出し」と言います。
留袖新造
エリートになれなかった禿が留袖を着ていたことから呼ばれた名称。
または10歳以上で吉原に来て、禿を経験しなかった子が呼ばれました。
振袖新造との違いは、容姿以外にお客を取ることです。
17歳がデビューの吉原ですが、振袖新造と違いそれ以前にお客を取らされま
す。
また、正式な遊女となってからも中級以下の扱いを受けることになります。
番頭新造
年季の明けた遊女がなり、普通は30歳以上の女性がなりました。
太夫の世話役として交渉事、連絡係を行っていました。
鎗手(やりて)
こちらも元遊女で、30歳以上の女性がなりました。
遊女の値段やお客の酒宴内容を決めたり、お客が指名した
遊女ではなく、指名の少ない遊女を言葉巧みに回したりと見世の実質的なマネージャー。
一人の遊女に付くのではなく、見世全体の遊女を売ることの切り盛りをしていました。
「意地悪ばあさん」の遣り手婆ぁはここからきました。